武漢の民俗-端午節に龍舟を漕ぐ

    2013-06-07

  龍舟漕ぎは古代の人々が屈原(偉大なる愛国者、祖国のために汨羅江に飛び込んで自殺した)を祀るために行うイベントだと言われている。歳月とともに、龍舟漕ぎは龍舟競漕大会に変わってきた。武漢では端午節に龍舟競漕が行われた歴史記録が残っている。清朝道光時代、葉調元氏は『漢口竹枝詞』に3首の詩を書き残した。その中に、龍舟競漕についての記述がある。「万桡斉挙水飛空,両岸喧呼助勢雄;搶罢对江船漸散,小河一片夕陽紅」。注釈によると、「40、50代、時たま60代の船員が、太鼓の叩きに集められ、龍舟と同じ色の頭巾と半袖の服を着用している。川の両岸に舞台が立てられ、赤い提灯がかけられている。舟が水に入った瞬間、または岸についた瞬間、必ず爆竹を鳴らし盛り上げる。これが龍舟競漕の大体の様子だ。至米場(現在の王家巷埠頭)では、舞台が作られ、人々は飾られた龍舟で演出したりして、大変賑やかだった。その後、負けず嫌いな者により、試合中によく揉め事が行われたりして、競漕が一時中止されていたこともある。1936年に武漢で史上最大な規模の龍舟競漕イベントが行われた。当時の漢口市は龍舟競技委員会を組み、応募者に書面の申請を提出するよう求めた。申請の際に、埠頭の名前及び船の長さ、色、マーク、また漕ぎ手の人数を書面申請書に記さなければいけないということになっている。許可されたら、委員会は各船を歴史上の民族英雄の名前(岳武穆、文天祥、史可法など)で名づけ、また、それに応じて旗を制作する。埠頭のオーナーは今までの船名を襲用する。遠洋とチームは伝統に基づき命名されている。例えば、老緑龍、老黄龍、老白龍などだ。船の大きさはチームの資金力によるもので、最長の船は30メートルで、平均長さは20メートル程度だ。記録によれば、その年に各埠頭から競技に参加した龍舟は35隻にも達し、いずれも自腹で新しく作ったのだ。龍舟は立ち漕ぎと座り漕ぎという二列の櫂があり、それらの間で幅一尺ほど足らずの磨り臼が二台設けられている。旧暦五月一日は試し漕ぎの日である。数千名もの漕ぎ手は龍舟と同じ色の服装と頭巾を着装して船を漕ぐ。太鼓が鳴ると終了する。磨り臼を動かすのはみんな若者である。最も出資の多い者は「頭磨」になり、二番目に多いのは「二磨」になる。磨り臼を動かす者は頭に花を飾って帽子をかぶる。シルクの服、ストキングに織物の靴を履く。磨り臼に立つととてもハンサムだった。船の後ろに縄梯子が置かれている。裏より前が大きく、長さ数メートル。化粧をした一人の三枚目が梯子の上に座り、牛の角で作られるラッパを吹き、勢いづける。縄梯子の両側に七星旗と命名旗が挿してある。太鼓を叩きながら船尾をコントロールする人は船について経験豊富な年寄に担当してもらうことが多い。船ごとにナビゲーターの役割を果たす重要な人がいる。この人が「包頭」と呼ばれ、龍の髭に跨るように座り船隊の指揮を執る。包頭は「虎頭櫂」を持ち、左肩に斜めに赤いスカーフが飾られている。頭櫂は競技や挨拶の場合以外にほとんど水に下ろさない。垫頭は船の前方に立っている。包頭と同じように、虎頭櫂を持って、肩に赤色のスカーフが飾っている。包頭の指示に従い船員に向かって「漕げ!漕げ!漕げ!」と叫ぶ。彼の櫂は水には下ろさないが、一生懸命に漕いでいる様子は漕ぎ手たちを激励する役割を果たしている。漕ぎ手たちは船の左右の席につき、太鼓のリズムに合わせながら漕ぐ。太鼓叩きが速ければ速いほど、船漕ぎも速くなる。太鼓叩きが消えると、漕ぎが中止する。船前後で磨り臼を動かしている者は細長い竹棒を持って円を描くように振り、遠くから見ると龍の両髭が揺れているようなのだ。競技は旧暦の五月五日に正式に行われる。組織の不備により、「李太白」(Li Taibai)という船が転覆し、尹という選手が溺死した。競技終了後、全ての船は自由に漕げる。当時には、宗関から龍王廟まで、全ての埠頭に二隻の木船が停泊していて、標船と名付けている。標船には、色とりどりに飾り付けられた仮設小屋がたくさんあって、バンドを招いてきた船もある。龍舟が着くと、花火を打ち上げたり音楽を流したりして、歓迎の意を表す。龍舟は速いスピードで標船を2~3周回ってから、標船に近づいて休憩する。標識船にはあめ、お茶、饅頭、タバコなどが用意されている。また、川の両側にたくさんの市民が殺到し、空前の盛況だった。その後、競技は断続的に行われているが、以前の盛況に及ばなかった。近年、国がこの伝統的な民間イベントをスポーツ競技として認定した。